タクミの場合①
疲れと緩やかな絶望
あの時、別に自動車に轢かれるつもりはなかった。だけど、気が付いたら僕は、赤信号にもかかわらず横断歩道にフラフラと足を踏み入れていたんだ。
クラクションとブレーキの音が響いて、ヘッドライトに照らされて…「あ、ヤバイな」って思ったけど、もう面倒くさくなって…。
クラクションがファンファーレに、ヘッドライトがスポットライトに思えて、ちょっと他人事みたいに笑えた。
いつもは目立たない僕だけど、最後に注目浴びてるって思えて。
なんか気持ちいいな、でも、轢かれちゃうのかな…
取り留めなく考えつつ、僕は目を閉じた。
追い詰められる日々
気付いた時に見えたのは、なぜか白衣姿のカスミだった。
さらに、その横にはちょっと青ざめた様子のアキ。
カスミの方は特に顔色を変えることなく、僕の寝ているベッド脇で作業をしてた。
窓から入る光がまぶしいな。…もう朝か。
「あ~、僕はカスミの勤務している病院にいるんだ」ってことだけ頭に浮かんで、そのまま目を閉じた。
「ねえ、カスミ、また寝ちゃったみたいだよ! 平気なの?」
「アキ、そんなに騒がないで。大丈夫だから。運よく路肩に倒れたから、轢かれたわけじゃないの」
「でも、起きないよ!!」
「病院内で大声出さないで。それよりタクミの実家の連絡先、メモって来てくれた?」
高校からの友人のアキとカスミ。二人の会話を聞きながら、昨夜のことをぼんやりと思い出し始めた。
僕は実のところ、最近ちょっとヤバい。
仕事では営業成績が落ち込んでいて、挽回するために頑張ってはいるけど、一向に改善しない。
周りの上司も同僚も最低で、自分のことしか考えていないやつばかりだった。
僕は要領が悪く、他人の雑用まで押し付けられ、毎日帰りは深夜だ。
さらに追い打ちをかけるように弟がバイクで事故った。
アキも仕事に悩んでいたけど、悩みが解消したらしく昨日のラインでは「仕事がんばる!」みたいなこと言ってたな…。
がんばれって返信してあげたかったけど、どうしても応援の言葉が出なかった。
最初にメッセージを見たのに、何も言えずにアプリを閉じた。
ごめん、自分のことで手一杯で、応援もできなかったのに。
病院まで駆け付けてくれたんだ、連絡先まで探してきてくれて。
…あ、ダメだ、実家に電話をしては。
親は弟の事故のことで手いっぱいなのに、余計な心配かける!
「待って、実家には連絡しないで!」
絞り出した声は声になっておらず、僕は意識を再び失った。
信じられない“仲間”
「…ええ、息子さん、ちょっと最近落ち込んでいる様子はありましたが…」
「僕らも仲間として、心配していたんですけどね…」
珍しくしおらしげな声の主は、僕の同僚たちだ。
その横で、うちの母がおどおどと相槌を打っているみたいだ。
あ~、呼んじゃったのか、アキのやつ余計なことを。
母さん、心配するじゃないか。
それに、同僚たちもいるなんて、サイアク。
なにが「仲間として」だ。
きっと、今まで母さんやアキたちの前で、空々しい慰めの言葉なんかをシレっと並べてたんだろ。
そもそも、最近落ち込んでいるのはお前らのせいじゃないか。
上司丸め込んで、僕に雑用押し付けて、さらに手柄を横取りまでしてさ…。
確かに、営業成績はあまり良くなかったし、自分でも向いていないんじゃないかって不安だった。
だけど、ようやく取引先とコミュニケーションが取れるようになっていたんだ。
それなのに、アイツらは取引先に裏から根回しして、最後の契約を自分たちで取ってしまった…。
慌てて取引先に連絡したら、「退職されたと引き継ぎの方から言われましたが?」ってきょとんとされたよ。
相手は小さな小売店の店主で、初めてうちのような大手メーカーと直接取引するそうだった。
昔気質のおじさんで、警戒心が強かった。
やっとあと一歩だったのに。
これさえ決まれば、もう少し自信が持てたのに。
営業は、個人プレーが基本で、結果がすべて。
上司も成績しか見ていない。
僕が今回、何度も取引先に足を運んでおり、契約を進めていたことも上司はあまり把握していないだろう。
だから、諦めた。
そうしたら、同僚たちは僕に対して、あからさまにバカにする態度を取るようになったんだ。
前から陰口の多い会社だとは思っていたけど、それでも面と向かって言われないだけマシだった。
もう、限界だった。
僕の本当の気持ち
「ねえ、タクミ。起きてる?」
カスミの声がして、我にかえった。
「…うん」
どうやら他の人たちは帰ったみたいだ。
一体どれくらい、経ったんだろう。
「今何時? 他の人は帰ったの?」
「うん、帰ったよ。もう夕方だよ」
ちょっと笑顔を作ってカスミが言う。
考え事をしながら、いつの間にか寝ていたみたいだ。頭が少しすっきりしてる。
ゆっくりと体を起こして、首を回す僕に、カスミはそっと言う。もう顔は笑ってない。
「まさか、本気で車に轢かれるつもりじゃなかったよね?」
彼女の声は冷静だったけど、目が真剣すぎて「ああ、看護師としてではなく友達として言ってくれてるんだ」と胸のあたりが温かくなった。
その温かみは徐々に上へ上へと昇ってきて、やがて僕の目頭を熱くした。
「別に死ぬ気なんてなかったよ。でも、頭がぼんやりするし、何も考えられなくなって、知らないうちに車道に歩きだしていたんだ…。でも、もうどうでもいいや、って気持ちにもなって…」
一度言葉が出てしまうと、堰を切ったように次々に言いたいことがあふれてきた。
会社での不遇、さっきの同僚たちの本性、上司も誰も助けてくれないし、会社に信用できるやつがいないこと、営業の仕事が辛いこと…。弟が事故って、自分がしっかりしなきゃダメだってこと。
カスミは口を挟まず、うんうんとうなづきながら聞いてくれた。
あれ、そういえばカスミ、今日はずっとここにいるようだけど自分の仕事はいいのかな?
「カスミ、仕事は?」
僕がそう言うと、今度は心底あきれたような顔をして、大げさなくらい大きなため息をついた。
「あのね、あんたさ、そういう人がよすぎるところがよくないんだよ?」
「よすぎるところがよくない? どっちだよ」
笑いながらまぜっかえした僕に、カスミは肩をすくめて言った。
「そうやって、ふざけて本質をごまかすのも良くない」
友人としての見立て
カスミは僕を諭すように話し続けた。
「タクミ、あんた今、精神的にちょっと危ういと思う。私は医者ではないから、これは友達からのアドバイスだと思って聞いてくれる? ちょっと医学に詳しい友達からの」
うなづく僕に、カスミは諭すように話し出した。
今の僕は会社での仕打ちや肉体的な疲れ、弟の事故の心配などが重なって、心が追い詰められているようだ、とカスミは言う。
確かに疲れてはいるが、心の状態は自分では分からない、と僕は思う。
どうやら、自分では気づかないうちに心が蝕まれていくこともあるらしい。
また、家族や周りの人に気を使いすぎるのもよくないとか。
「ストレスはどこで発散してたの?」カスミは聞くけれど、僕はストレスだなんて思っていなかった。
イライラもしないし、漫画とかで見るような「あ~ストレスたまる!」みたいな爆発もなかったし。
そういうとカスミはさらに悲しそうな目で僕を見て、力なく笑った。
「すぐに会社辞めるか、カウンセリング受けるか、選びなさい。両方やってもいいわよ」
リセット
結局、僕はカスミの勧めに従って、会社も辞めたしカウンセリングも受けた。
会社を辞める際にはひと悶着あるかな、と思ったが杞憂だった。
僕のメンタルを気遣って、カスミが勧めてくれた退職の代行業者を使ったのがよかったのかもしれない。
結局、こまごまとした手続きは代行業者が引き受けてくれて、僕はのんびりとカウンセリングを受けたり体の回復に専念できた。
退職の代行業者といっても、きちんとした弁護士がやっているサービスだから、法的にも問題なく、安心して辞められた。
退職してから客観的に見ると、どうやら僕の会社はいわゆる「ブラック企業」だったようだ。
パワハラやモラハラが蔓延していて(ウイルスみたいだな)、「Aから嫌がらせされたから、俺はBにやってやる」と悪い習慣は他の人に伝染していく(ウイルスみたいだ、本当に)。
僕の場合、「オレもやってやる」とならなかった分、発散の手立てがなく、一層危なかったのかもしれない。
とりあえず、体を休めてから別の仕事を探すことになるだろう。
もうノルマのある仕事はしたくないな、とも思うけど、人と話し合ったり歩み寄ったりする営業の仕事っておもしろいんだよな、って思う気持ちもあるんだ。
カスミにこんなこと言ったら「優柔不断なのもよくない!」って一刀両断されるかもな。
1人でクスクス思い出し笑いすることもできるようになってきた。
ようやく、リセットだ。
会社に行かなくて良くなると、急に時間を持て余すようになる。
とりあえずは、簡単なバイトでもしながら、のんびりと次の仕事を考えていこうと思っているけど。
確かに、生活のために働かなければいけないけど、長く腰を落ち着けて働き続けるための仕事選びはまだ、できそうにない。
それならば、ちょっと気楽にできるアルバイトでも見つけてみよう。
きっと、若い学生と一緒にワイワイ騒ぎながら働くのは悪くない。
肉体的にも精神的にも限界が来ていたタクミ。カスミの助言で現状を変える決意をした。タクミは新しい一歩を踏み出すことができるのか?
第5話に続く
【短編小説】2回目のスタートライン☆第5話
執筆:chewy編集部 みや (@miya11122258)