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グラレコに夢中になって美大に飛び込み、心から好きな仕事に出会ったMiyakoさん

商社で働いていた時代にグラレコ(グラフィックレコーディング)と出会ったMiyakoさんは、グラレコに恋に落ちた結果、可視化する面白さや意義にハマってしまい、気がついたら武蔵野美術大学の新設された大学院に1期生として飛び込み、商社を退職したという。現在はフリーランスのソーシャルグラフィックデザイナーとして各所で活躍するほか、仕事の幅を広げ、コミュニティマネージャーとしても働いている。今回はMiyakoさんに、グラレコとの出会いを中心に、これまでのキャリアを伺った。

大学在学中に「点と点を繋ぐ仕事がしたい」

商社に入社する前は、神戸の外国語大学で国際関係を学んでいた。

「外国語大学だから、休学して留学する人が全学生の7〜8割ぐらいいました。なので交換留学に対するサポートは手厚かったんです。ただ実際に休学した人からアドバイスをいただける機会は少なかったですね。だから自分がどこに留学するのか、インターシップなのか、世界一周の旅行なのか、選択肢が見えないまま、よく分からない状態で決める人も多かったです」

Miyakoさんもそのひとりで、結局そこまで先輩の知り合いもいなかったことから、やりたいことを総合的に検討した上で、全て自分で調べてアメリカの学部に留学した。なので学費や立地、学部で学ぶ内容は妥協することなく選ぶことができた。自分自身の学部留学には悔いはないものの、休学後に同級生と互いの経験を語り合ったとき、ただ、他の選択肢もあるとわかっていたら、自分はどうしていたのだろうと感じることもあったそう。

「同級生や先輩に話を聞くと、意外と休学して留学した体験に関する情報を知りたがっている人は多かったんです」

そこで、休学を検討し、情報が知りたい人と休学経験者を繋げるプラットフォームがないと気づき、『キューガク。』というサークルを立ち上げた。

「これから留学する後輩や留学を終えた先輩たちの自分の休学期間の体験を共有・アウトプットしたいというニーズを繋ぎ合わせて、相談会やイベントの場を設けました」

その後、後輩が引き継いでくれて今では部活になっている。

「『キューガク。』がきっかけとなり、『点と点を繋ぐ仕事をしたい』と思い始めました。例えば、AさんとBさんがいて、私はこの2人を知っているけれど、AさんとBさん同士は知り合いではないとします。でもこの2人が繋がれば、お互いのシナジーが生まれたり面白いことができるかもしれない。ただ真ん中に誰も入ってくれないと、繋がらないままなんですよね。だから私がAさんとBさんを繋げられないか。そう考えるようになりました」

サークルを立ち上げた経験は「点と点を繋ぐ仕事がしたい」という、働くうえ、そして生きていく上での、軸になった。

グラレコを知るきっかけ

その後、大学を卒業して総合商社に入社した。

「配属されたのは新卒をとったことのない部署で、上司は17歳も上の方だったんです。一緒に仕事をするのは、課長、部長クラスの人ばかり。新卒で何もスキルがなかったので、ひたすらメモをとり仕事を覚えました。それこそ予算管理から戦略会議の資料作成、株主総会の資料作成など、なんでも取り組んでいました」

周りの先輩の教えもあり、目先の利益にとらわれず、経営の視点を交えた全社的な動きを見れたのは貴重な経験だったという。

「入社後、外の人とも繋がりを持ちたいと考えるようになりました。それで土日によくベンチャー会社のイベントに出かけていました。プライベートの名刺を持っていなかったので、会社の名刺を配っていたんです。そこで感じたのは、会社の看板が大きくて会社の名前で仕事をしているという感覚でした。それでも土日は商社パーソンではないから、私個人として繋がりたいという気持ちがありました」

程なくして、あるベンチャー会社のイベントに参加した。そこで4人1組のチームになり、「新規事業を考える」をテーマに、議論をまとめたものを発表する機会があった。

「発表する上で大切になってくる議論の整理はできると思いました。会話の流れや要点を、普段から書いているような図やイラストを使いまとめたんです。そしたら、それを見た周りの人たちが驚いて、ベンチャーの社長さんが感動してくださって。急遽、ベンチャーの社長さんが、その場で『個人MVP』の賞を作ってくださり表彰されたんです。さらに周りの方々には、『これはグラフィックレコーディングというスキルだから、ちゃんと勉強した方がいいよ』とアドバイスもいただきました」

その時、初めて「グラレコ」という存在を知った。

「それからグラレコの先駆者である清水敦子さんの本を読んで、イベントに通うたびにグラレコメモを徹底的に作成する練習を重ね、勉強していました」

グラレコの勉強をしながら平日は仕事に励み、土日はイベントに足繁く通っていたという。

「当時フリーランスに興味を持ち始めていたんです。グラレコは自分に合っていたので、天職のように感じていました。でもこの時はまだ、商社を辞めるという考えはなかったですね」

武蔵美(むさび)の大学院生になりフリーランスへ

あるとき、名古屋で開催されたイベントで同世代の女性に出会った。アクセサリーデザイナーのSayaka Itoさん。当時、25歳だったが、すでにSayakaさんは独立して仕事をしていた。「同い歳なのに」とMiyakoさんは衝撃を受けたという。

「彼女がどうして独立したのか、詳しく聞いているうちに自分の人生について考えるようになりました」

そしてSayakaさんが東京に1週間滞在した時、彼女から「渋谷Design Scramble」というイベントに誘われた。そこで武蔵野美術大学の大学院に通うきっかけとなる先生に出会った。


「イベントの中で、武蔵美で新しい学部を立ち上げられた長谷川敦士先生が登壇され、その話が印象に残リました。それで長谷川先生にグラレコをやっていること、いつかこんなことができたらと考えていることを話したんです。そしたら長谷川先生はすごく親身になって話を聞いてくれて、武蔵美を受けてみたらと言われました」

出願までは2週間を切っていた。しかもMiyakoさんは美大に関する知識はない。
「たぶん記念受験になるだろうと感じていました。でも知り合いのデザイナーさんの力をお借りして、寝ずに必死に願書を作ったんです」

そのかいあって、Miyakoさんは合格した。晴れて武蔵野美術大学の大学院の一期生になった。

「大学院に通いながら仕事を続ける選択もできました。でもたくさん仕事を教えてくださり、面倒を見ていただいた大好きな部署のメンバーに大学院に通うことで、迷惑をかけたくないという気持ちが強くて、思いきって辞めることを決意したんです」

一期生のメンバーは、22歳から60歳まで幅広い年齢層が集まり、共にソーシャルデザインなどを学んだ。

そしてMiyakoさんの生活は一変した。

「商社を辞めてフリーランスになったわけですが、とにかく学費が高かったんです。あと、会社員の頃は気付かなかったけど、住民税、社会保険料ってこんなに支払うんだ。と驚きました。大学院の授業料も支払わなければいけないし、貯金残高がどんどん減っていくのは恐怖でした。フリーランスってみんなこういう経験するのかなと感じましたね」

もし念入りにお金のことを下調べしていたら、会社を辞めてまで大学院に通っていなかったかもしれない。「それでも大学院の授業が忙しくて、毎日をひたすらこなす生活が続いて不安になる暇はありませんでした。振り返ると充実した2年間を送ることができたと思います」

当時、グラレコの仕事は営業をせず、全て紹介からだった。

InstagramTwitterで発信していたら、興味を持った方が声をかけてくださって。それこそ1年目は、お仕事の話をいただいたら一切断らずに受けていました。実は今も営業はしていないんです」

グラレコでの仕事の幅が広がる

その頃、知り合いからの依頼もあり、グラレコを教える講座を不定期で開催していた。

「ある時『オモコロ』というメディアのライター岡田さんがたまたま参加してくれていたんです」

名刺交換した時に、グラレコの記事をいつか作りたく、Miyakoさんと一緒にできたら嬉しいと言われた。

「お話をいただけた時は本当に嬉しかったですね」

それもそのはずMiyakoさんは、大学時代から「オモコロ」が好きでよく読んでいたからだ。

「実際に記事が公開されたら、『グラレコ』という存在を周りに知ってもらうことができました。会社員時代の友人や大学院生の同級生にも喜んでもらえましたね」

オモコロに出たことで、企業からご依頼があったり、個人向けに人生を可視化したりする仕事にもより弾みがつくようになった。

そしてもう一つ、さらに反響の大きかったグラレコがある。

2020年4月に新型コロナウイルスの有職者会議があり、その時に一般向けの資料が公開された。しかし専門用語が多く知識のない一般の方々にとっては、まだまだ馴染みにくいものであった。

「これは幅広い方に知っていただくべきことだと感じました。そこで、大学院非常勤講師を務め、これまでも数多くのアドバイスをいただいてきた『西村真里子先生』と、『グラレコを使って分かりやすく可視化してみよう』という話になったんです」

そこで日本語の方言世界各国の言語に翻訳して作った。この時、外語大の繋がりとこれまでの仕事やプライベートでご一緒した方50名以上が知り合いをあたってくれて、35言語の翻訳が実現できた。


SNSで発信したら多くの方がリツイートしてくれて、どんどん拡散していった。そしていつの間にか1万人以上の人に届いていたという。

発信してから半年後、Miyakoさんの地元で小学校の近くの薬局に、彼女が書いたグラレコが貼ってあると、小学生の同級生から聞いた。また全国各地の福祉施設からも、Miyakoさんのグラレコを使わせていただきたいと、問い合わせが相次いだ。

その後も仕事の幅は広がり、「Abema TV」や「テレビ東京」でもグラレコを描いた。

「点と点を繋ぐ」仕事に巡り合う

最近はグラレコの知識を活かして別の仕事にも関わるようになった。

「コミュニティマネージャーとして、企業の事業チームの新規プロジェクトを取りまとめているんです。例えば、同じスペースに集う人たちはイベントなどのきっかけがないと、普段はなかなか偶発的に会話が始まることがないので、そういったコミュニティメンバーの皆さんを有機的に繋げていく起爆剤になる存在でありたいと考えています。まさに大学生の時に考えていた、『点と点を繋ぐ』仕事だと感じてます。またグラレコでもできることに関わらせていただいたり。多様なコミュニティマネージャーの方が社会で活躍されていて、私も日々彼らから学ぶことはたくさんあるのですが、グラレコという可視化スキルがあることで、個性を生かしたコミュニティマネージャーの活動の幅が広がっているのは嬉しく思います」

他にも、BOSAI POINTのサービスを提供している企業とも仕事をしているという。グラレコがMiyakoさんにとって一個の武器になっていると感じた。

「会社員の時は、個人が受け持つべき担当があり仕事の範囲がある程度見えていて、チームで仕事をしている感覚でした。フリーランスになってからは、チームAとチームBを繋げられる、要は点と点を繋げる仕事ができるようになりました。今はより幅広い分野で様々なプロとタッグを組み、チームとして活動している感覚です。そして会社員の時よりも自分の個性やスキルを生かして働けているな、という感覚が強くなりました。フリーランスの面白さって、やろうと思えばどこまででも仕事にできることだと思います。何なら趣味が仕事になることも十分にありえるんです」

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Miyakoさんはよく本やメルマガを読んで、アンテナを広げている。「そこで見聞きしたことを、〇〇さんには刺さるかもしれないって思うと、無意識にその人に情報をお伝えしているんです。向こうからしたら、ありがた迷惑かもしれないけれど。でもそういう『小さな親切大きなお世話』になりかねない発想も、何かのきっかけを作る大切なプロセスだと感じるようになりました。実際、そういった記事をシェアするなどがきっかけで久しぶりに連絡を取る知人は多くいますし、その流れで『最近何やってるの?』『こういう案件あるけど、なんか一緒にできないかな?』などの会話が増えるのは、非常に嬉しいし、本当にフリーランスとしての無限大の可能性を感じる瞬間だったりします」

人との繋がりを大切にする方なんだと感じた。

最近は山登りと観葉植物にハマっていて、これらの面白さを発信するツールとして、グラレコを使いたいというMiyakoさん。その表情は生き生きとしていた。

画像提供:Miyako
取材・執筆:つか(@tsuka_0806
編集:中村洋太(@yota1029